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新佐野乾山は論争する意味などなし の件まとめ

 投稿者:ケイさん  投稿日:2016年 1月10日(日)00時17分18秒
  新佐野乾山は論争する意味などなし
投稿者:みやび 投稿日:2010年 1月20日(水)16時45分29秒   通報 編集済

(佐野乾山について)一言言わせて頂きます。この論争についてはもう決着がついています。何故なら、栃木県に於いて発見されたと言われている一連の作品は、とある方が自作であることを認めており、その口止め料として関係者(業者・古美術商)である斉藤素輝氏に対し、多額のお金を支払ったという事実があるからです。実に斉藤氏はこの資金を基に中野区に豪邸を建てて、静かに余生を送り人知れず(かどうかは分かりませんが)お亡くなりになった訳ですが、以後佐野乾山事件は永年忘れ去られ、闇に葬られていたわけです。この話は私が懇意にしている古美術商から(勿論件の斉藤氏とは同業者であることから旧知の仲であり、本人から直接その旨の話を聞いたそうです。)聞いておりますので間違いはありません。ただ、このような話をいきなりし出すと、やれ、でっち上げだの、斉藤氏がもうこの世にいないからそんな根も葉も無いことがいえるんだ、などの声が聞こえてきそうですが、事実なのだから仕様がありません。それよりも何よりも、新佐野乾山肯定派の住友さんはじめ諸々の方々。あなた方は、現在真作とされている鳴滝、二条丁子屋、そして数少ない入谷、佐野(あなた方が否定している)の作品集、図録をもっと純粋な美術を愛する目で、そしてもっと公正な立場で(反対派への憎悪などは抜きにして)見てください。そして焼き物だけではなく(また、乾山・光琳の作品だけではなく)全ての時代のあらゆる日本の美術品を良く見てください。あなた方の支持する新佐野乾山がいかにその美術の流れに沿っていない下劣なものであるかを。また、乾山の美意識が反映されていないものであるかということを。仮に乾山がパブロ・ピカソのように劇的にその作風を変えたのだとしても、結果、断じてこのような作風にはならないものだということを。
最後に決定的なことを言いましょうか。乾山が江戸に下った69歳の時点で尾形光琳はすでにこの世の人ではなく、住友さん所持の乾山・光琳合作などは当然、佐野時代で存在するはずなど無いのです!いい加減目を覚ましてください!


真贋はうやむやにせず徹底的に議論すべき
投稿者:ケイさん 投稿日:2010年 1月24日(日)02時47分8秒 編集済

みやびさん、書き込みありがとうございます。

しばらく掲示板は覗いていなかったので、レスが遅れて申し訳ありません。
斉藤素輝氏がらみの話、ありがとうございます。しかし、申し訳ありませんが、その種の話はいろいろと私も耳に入っていますが、私は疑問を持っています。
例えば、中野に豪邸が建つほどのお金が「佐野乾山」で動いていますか?
「佐野乾山」は売れたとしても住友氏が何かの本で言っていたように「ニセモノ」としてしか買う人はいませんので二足三文の値段です。

あと、誤解があるようですが、私はHPで何度も書いているように「佐野乾山」事件当時の森川氏、バーナード・リーチ氏が認めた「佐野乾山」で議論すべきだと思っています。ですので、住友氏が所有しているものに関しては、その次に順を追って議論すべきだと思っています。(そうしないと論争当時の議論と話が噛み合いません)

私は森川氏の「佐野乾山」に関する真贋議論が十分になされないまま現状に至っていることが問題だと思っているのです。十分に議論をした結果が贋作であるなら贋作でも良いと思っています。もしみやびさんが書かれたことが本当であるのなら、それをきちんと表に出して検証して議論すべきだと思います。


乾山・光琳の合作
投稿者:ケイさん 投稿日:2010年 2月 9日(火)00時19分5秒 編集済

みやびさん

>最後に決定的なことを言いましょうか。乾山が江戸に下った69歳の時点で尾形光琳は
>すでにこの世の人ではなく、住友さん所持の乾山・光琳合作などは当然、佐野時代で
>存在するはずなど無いのです!いい加減目を覚ましてください!

この意味が良く分からないのですが、乾山・光琳合作の「佐野乾山」を住友さんが所有しているという意味でしょうか? もしそれが本当ならあり得ないことです。

しかし、私が住友さんの本を読んだ限りでは、氏の所有されている乾山・光琳合作は、「佐野乾山」ではありません。氏の説によるとこれらは、鳴滝窯に先立つ二条綱平公のお庭焼きである仁寿窯の作品となっています。この仮説に関しては、ほとんど議論がされていませんので私も良く分かりません。
しかし、乾山が江戸、そして佐野に下った時に手ぶらで行ったとは思えません。当然、自分の力量を示すために鳴滝窯時代などの気に入った作品を携えて行ったと考えるのが自然ではないでしょうか?
したがって、佐野から乾山・光琳合作の作品が見つかってもおかしくはないと思います。(当然これは「佐野乾山」ではありません)


みやびさんへ質問です
投稿者:ケイさん 投稿日:2010年 2月21日(日)01時13分33秒 編集済

>新佐野乾山肯定派の住友さんはじめ諸々の方々。あなた方は、現在真作とされている
>鳴滝、二条丁子屋、そして数少ない入谷、佐野(あなた方が否定している)の作品集、
>図録をもっと純粋な美術を愛する目で、そしてもっと公正な立場で(反対派への憎悪
>などは抜きにして)見てください。

私は乾山に関しては、良く見ているつもりです。図録などを見ても、良いものもあるし悪い(という言い方が悪ければ好きでない)ものもあります。本当に乾山の作品か?と思うものもかなりありますよね?

>そして焼き物だけではなく(また、乾山・光琳の作品だけではなく)全ての時代のあらゆ
>る日本の美術品を良く見てください。あなた方の支持する新佐野乾山がいかにその美術の
>流れに沿っていない下劣なものであるかを。

みやびさんは、どの佐野乾山を見て「下劣」というようなことを言っているでしょうか?
森川さんの集めた作品をご覧になったことがあるのですか?
 

RE:乾山

 投稿者:ケイさん  投稿日:2013年 6月22日(土)00時59分4秒
  陶芸まん さん

コメントありがとうございます。
乾山の作品は、器は弟子が作ったものがほとんどだと思いますし、絵は光琳が書いていました。乾山はそれに賛を付けて「乾山」と書くのが通例でした。ですので、乾山の自画自賛の作品は特定できていないのが現状のようです。(竹内順一氏のコメント)
陶芸家は、おおよそ作陶の部分で評価しますので佐野乾山を「形が悪い」、「無機的に作っている」など悪い評価となります。佐野乾山を本当に評価できるのは、書や絵が分かる人で陶芸家ではないでしょう。
バーナード・リーチは富本氏や浜田氏は「絵が分からない」と嘆いていたそうです。
 

乾山

 投稿者:陶芸まん  投稿日:2013年 6月21日(金)19時04分33秒
  乾山は写しとか偽物とか二代目とか三代目のが多いけど出てますね。
ヤフオクでたま~にありますよ。初代乾山。どう何が良いってうまく言えないんですけど良いんですよね。
不思議な気が出てるっていうか。意外と小さくてその小ささが良かったり。色や形が良いんですよね。
まあ、良かったら、少しは昔の美術やってたら、写真で見てても、
見る人が見たら何か宿ってるように不思議に見えるもので、
そういうのは贋作作れないでしょう。全く同じように作ろうとしてもならないんですよ。
筆触って、そういう風に機械的に操作とか出来ないんですよね。まったく時代に矛盾が無いような贋作なら、
作れますよね。機械で作るみたいにすれば。

でも、美術家とか目利きは良かったら買うし良くなかったら買わないので騙しようないんですよ。
 

乾山

 投稿者:陶芸まん  投稿日:2013年 6月21日(金)18時50分2秒
  美術は美術家が一番よく分かる。デッサンとか描いて行けばいくほど色や形が分かる。
だからバーナードリーチが見間違えたとか本当は有り得ないんですよ。
美術家を騙すような偽物って作りようが無いんですよね。
政治的圧力在ったと思いますよ。僕としては色んな美術家や画家に見せて欲しかったですね。佐野乾山。

魯山人によれば、乾山の作品の多くが弟子との共作だったり弟子が作ったのだったりするそう。

まあ、今でも、乾山の本物が、本物と認められませんね。たまに出てても、鑑定機関では多分本物とか言われないんでしょう。そんなに沢山は出てないけど、出てますな。

魯山人が生きてたら
まあ、どうなって何て言ってたでしょうかね。

 

みやびさんへ質問です

 投稿者:ケイさん  投稿日:2010年 2月21日(日)01時13分33秒
編集済
  >新佐野乾山肯定派の住友さんはじめ諸々の方々。あなた方は、現在真作とされている
>鳴滝、二条丁子屋、そして数少ない入谷、佐野(あなた方が否定している)の作品集、
>図録をもっと純粋な美術を愛する目で、そしてもっと公正な立場で(反対派への憎悪
>などは抜きにして)見てください。

私は乾山に関しては、良く見ているつもりです。図録などを見ても、良いものもあるし悪い(という言い方が悪ければ好きでない)ものもあります。本当に乾山の作品か?と思うものもかなりありますよね?

>そして焼き物だけではなく(また、乾山・光琳の作品だけではなく)全ての時代のあらゆ
>る日本の美術品を良く見てください。あなた方の支持する新佐野乾山がいかにその美術の
>流れに沿っていない下劣なものであるかを。

みやびさんは、どの佐野乾山を見て「下劣」というようなことを言っているでしょうか?
森川さんの集めた作品をご覧になったことがあるのですか?
 

乾山・光琳の合作

 投稿者:ケイさん  投稿日:2010年 2月 9日(火)00時19分5秒
編集済
  みやびさん

>最後に決定的なことを言いましょうか。乾山が江戸に下った69歳の時点で尾形光琳は
>すでにこの世の人ではなく、住友さん所持の乾山・光琳合作などは当然、佐野時代で
>存在するはずなど無いのです!いい加減目を覚ましてください!

この意味が良く分からないのですが、乾山・光琳合作の「佐野乾山」を住友さんが所有しているという意味でしょうか? もしそれが本当ならあり得ないことです。

しかし、私が住友さんの本を読んだ限りでは、氏の所有されている乾山・光琳合作は、「佐野乾山」ではありません。氏の説によるとこれらは、鳴滝窯に先立つ二条綱平公のお庭焼きである仁寿窯の作品となっています。この仮説に関しては、ほとんど議論がされていませんので私も良く分かりません。
しかし、乾山が江戸、そして佐野に下った時に手ぶらで行ったとは思えません。当然、自分の力量を示すために鳴滝窯時代などの気に入った作品を携えて行ったと考えるのが自然ではないでしょうか?
したがって、佐野から乾山・光琳合作の作品が見つかってもおかしくはないと思います。(当然これは「佐野乾山」ではありません)
 

真贋はうやむやにせず徹底的に議論すべき

 投稿者:ケイさん  投稿日:2010年 1月24日(日)02時47分8秒
編集済
  みやびさん、書き込みありがとうございます。

しばらく掲示板は覗いていなかったので、レスが遅れて申し訳ありません。
斉藤素輝氏がらみの話、ありがとうございます。しかし、申し訳ありませんが、その種の話はいろいろと私も耳に入っていますが、私は疑問を持っています。
例えば、中野に豪邸が建つほどのお金が「佐野乾山」で動いていますか?
「佐野乾山」は売れたとしても住友氏が何かの本で言っていたように「ニセモノ」としてしか買う人はいませんので二足三文の値段です。

あと、誤解があるようですが、私はHPで何度も書いているように「佐野乾山」事件当時の森川氏、バーナード・リーチ氏が認めた「佐野乾山」で議論すべきだと思っています。ですので、住友氏が所有しているものに関しては、その次に順を追って議論すべきだと思っています。(そうしないと論争当時の議論と話が噛み合いません)

私は森川氏の「佐野乾山」に関する真贋議論が十分になされないまま現状に至っていることが問題だと思っているのです。十分に議論をした結果が贋作であるなら贋作でも良いと思っています。もしみやびさんが書かれたことが本当であるのなら、それをきちんと表に出して検証して議論すべきだと思います。
 

乾山の黒楽茶碗について

 投稿者:ケイさん  投稿日:2009年 6月30日(火)23時43分51秒
編集済
  住友慎一先生の「光琳・乾山関係文書成」という本の中でウィルソン氏を批判しています。

・・・最近L・ウィルソン氏が「尾形乾山 全作品とその系譜」という本を出版している。この中でウィルソン氏は佐野乾山は贋物であると結論づけているが、氏は佐野での乾山の書付や作品をあまり見ておられないようで、また日本の古文書についての理解も不十分と思われる個所があるように思われる。(中略)
 ウィルソン氏は楽焼について、「乾山が黒楽茶碗の制作をおこなったか否かについては疑問がある。伝書のなかにも赤白楽の陶法は記述したが、黒楽については断り書きを認めている」と述べ、黒楽のほとんどの作品を猪八か最近の偽作という見解を示している。


この断り書きというのは、「佐野陶法伝書」にある記載で、

最後の記述だけを読むと黒楽はやらなかったとなるが、于今(今より)とあり、乾山に黒楽を作って欲しいと人々から頼まれたが、それは楽本家相伝のものなので楽家を差し置いて作るのは差し障りがあり楽家に頼んで下さいと記しているのである。そして黒楽の造り方は書かないと記して、今からは黒楽をつくるのは止めたと書いている。

つまり住友先生は、乾山は「佐野陶法伝書」を書いた時に(今より)黒楽は作らないと言ったのだから、それまで(鳴滝-丁子屋‐江戸入谷時代)は黒楽を作っていたと主張しているのです。ですから、ウィルソン氏がすべて猪八作や贋作とみなしている黒楽茶碗の中に乾山作のものがあり、それを見分けるには器形や絵付けの芸術性で見なければならないと書いています。
私も同意見です。
ウィルソン氏の説では、乾山は楽家本家に遠慮して黒楽は焼かなかったとしていますが、それでは「なぜ二代目乾山である猪八は黒楽を焼くことができたのか。」、という事に関して何も説明がないからです。
乾山が「佐野陶法伝書」を書く以前から楽家に遠慮して黒楽を焼いていなかったのであれば、当然二代目乾山である猪八にもきっちりと伝えたはずです。
乾山の正当な後継者である猪八であれば、初代と同じように楽家に対して同様の遠慮があったはずです。
 

乾山は本当にすぐれた陶工だったのか?

 投稿者:ケイさん  投稿日:2009年 4月21日(火)00時14分38秒
編集済
  こんなことを書くと、何を今さら当たり前のことに疑問を持っているんだ?と言われそうですが...。
まずは、「陶工」に関してです。

竹内順一氏(東京藝術大学大学美術館長)は、
乾山焼の研究史からは、乾山を陶工とみなすことが主流を占めていたことが浮かび上がってくる。確かな根拠がないため声高に反論するつもりはないが、乾山自身が「陶器作り」それ自体に関与するのは、ごく間接的なものであろうと考える。あえていえば、窯の主、経営者、今風にいえば製品開発のプロデュースをするような立場であったのではないだろうか。
(『乾山焼研究随想-いま残る重要課題にふれて』KENZAN 幽邃と風雅の世界2004年 図録より)

林屋晴三氏は、
陶窯というものは、現今でこそ作陶に当たった作家が一人ですべてまかなうこともあるが、本来そうした個人的作業のなかで製作される性質のものではなく、大・小の規模はあろうが窯主のほか複数の工人によって製作されなければ、本来生業のたたないものなのである。(中略)したがってまず、工房生産であるという認識をもって作品を捉え、その上で個々の作品の作行きを観察するという研究が行われねばならなかったのであるが、残念ながら世上の声価が作用して、そうした研究姿勢をとることができなかったことに、いまさらながら忸怩たる思いを抱くのである。
(『乾山焼について』乾山の陶芸 五島美術館1987年 図録より)

つまり、世上「乾山」作品と言われているものも基本的には工人が介入した作品であるということです。そして、その中でも乾山本人が多く関わったものは名品と扱われているわけです。

さて、乾山作品の中で名品と言えばどれになるでしょうか?
人によって好みで別れると思いますが、鳴滝時代の光琳によって絵付けされた銹絵の角皿は必ずあげざるを得ないでしょう。そして、その他の多くの鳴滝時代の作品が名品としてエントリーされるでしょう。
まずは光琳画の角皿ですが、確かに素晴らしい作品です。しかし、絵付けは光琳、角皿そのものは恐らく工人が作成したものです。そして乾山は光琳画に負けない「書」を書いています。さて、ここで考えてみましょう。
この作品で乾山は「陶工」の役割を果たしているのでしょうか? 「書」を書いたから「陶工」ならば、絵付けをした光琳も同様に「陶工」でしょうか?

別の視点から見てみましょう。乾山の作陶時代は、鳴滝時代、二条丁子屋時代、江戸入谷時代に大別されます。鳴滝、丁子屋時代は多くの工人を抱えて数物商売をしていたと考えられています。しかし、それに比較して江戸入谷時代は、乾山みずから作陶により多く関わったと考えられます。

リチャード・ウィルソン氏は、
江戸において乾山の素顔は初めて明らかとなる。京都ほどの手慣れた工人、協力者のなかった同地では、書・陶・画すべてにみずからタッチしなければならなかったが、江戸の乾山を知ることは、京都の乾山を振り返ることである。
(『尾形乾山 全作品とその系譜』)

さらに、江戸から佐野に遊んだ乾山はさらに自らが多く関わった作陶をせざるを得なかったと考えるのが妥当でしょう。つまり、乾山がすぐれた陶工であったのなら、作品として

(佐野乾山)>(入谷乾山)>(鳴滝乾山、丁子屋乾山)

の順に優れた作品が作られたはずです。その視点で考えて現在、佐野乾山、入谷乾山として認められているもので、そのような素晴らしい作品があるでしょうか? 私は無いと思います。

私たちは、森川勇氏が発見した佐野乾山を見た時のバーナード・リーチ氏の
一目見て本物と思うばかりでなく、私が今まで見たなかでもっともすばらしい乾山の焼物です。

という発言をもっと重視する必要があるのではないでしょうか? リーチ氏の発言は、当然、これまで名品として知られていた鳴滝乾山を含めて「私が今まで見たなかでもっともすばらしい乾山の焼物です」と言っているわけですから…。

最後に、藤岡了一氏(京都国立博物館工芸室長)のコメントを紹介します。
この意味において、このたび新しく発見された「佐野乾山」の一群と、十点におよぶ乾山手控帖は、佐野における乾山晩年の芸域を如実に示して余りあるばかりでなく、乾山の全容を正確に理解する上にも極めて重要な資料とせねばならぬ。特に森川氏の手元に収集整理されている資料の数々は、従来暗中模索であった佐野における乾山の作陶事情をかなり明確に伝えているし、また作品の大半は予想外にすばらしいものであり、乾山の面目躍如たるところを観ることができる。この夥しい「佐野乾山」の発見がまさに驚異というべき奇跡性の故に、真偽に関して疑問を抱く向きもあるようであり、一部ではこれらを全面的に偽作として否定し去ろうとする動きもみられるが、いまこれらの作品なり資料なりを直接に、冷静に観察すれば、やがては諸々の疑いも氷解するにちがいない。
(新発見の「佐野乾山」展 図録より)
 

落合先生が芳子を語る!

 投稿者:ケイさん  投稿日:2009年 4月17日(金)00時03分0秒
編集済
  2009年4月13日に放送された『報道発 ドキュメンタリ宣言 昭和史最大のスクープ 男装の麗人・川島芳子は生きていた!2時間スペシャル』(テレビ朝日放送)をご覧になった方も多いと思います。
これは2008年の11月に報道された「川島芳子は旧満州国警察学校関係者に匿われて中国吉林省長春市に住み1978年に死去した」と証言する女性が現れた件を肯定的に捉えて追ったものです。
その番組の中で落合先生が登場して、吉薗家に伝わる口伝を語っていました。その内容は、雑誌「ニューリーダー」1997年10月号に掲載されたもので、このHPの
http://homepage2.nifty.com/hokusai/rekishi/yoshiko.htm
に内容を掲載しています。

これも随分前にUPしたきりだったので、落合先生の最近の修正も加えました。
12年前の「ニューリーダー」に載った内容ですので、何を今更という気はしますが、歴史の闇というのはこのようにして明らかになるものなのでしょうね。
番組では、上原勇作の特務であった吉薗周蔵の手記についてもさらっとですが紹介しており、ある意味ビックリしました。

さて、この周蔵氏ですが晩年は「佐野乾山事件」に関わり、その意思半ばで亡くなられたと言われていますが、その真相を知りたいものです。
 

ウィルソン氏の乾山鑑定

 投稿者:ケイさん  投稿日:2009年 3月 2日(月)23時38分37秒
編集済
  ウィルソン氏の「The Potter’s Brush」とい本があります。これはある意味すごい本です。
アメリカのワシントンDCにあるフリーア美術館所蔵の乾山作品84点についての鑑定結果を書いた本です。それらの作品に関して、乾山作品、伊八作品、後世の写し、贋作、という具合に分類しているものです。これは勿論美術館の協力がなくてはできないものだと思います。どこの美術館でも自分の所蔵品が贋作だとは言われたくないものですが、この辺りはさすが米国の美術館は違うな~と感心しました。ちなみにウィルソン氏の鑑定では、乾山作品とされたものが10数点だけでした。
ウィルソン氏は、日本にある乾山に関しても「尾形乾山 全作品とその系譜」で、同様の分類をしていますが、こちらの方は「The Potter’s Brush」に比べると歯切れが悪く、所有者に対する配慮なのか、明確な書き方をしていません。
しかし、その本の中でも何故か「佐野乾山」に関しては、明快に贋作と断定しています。

ウィルソン氏の考察は、長年の自らの足を使った研究をベースにしたもので、非常に説得力があり納得させられる部分が多く、その鑑定結果には信用が置けるものと思います。そして敬意をはらうべきものだと思います。

しかし、一点だけ納得できないことがあります。
昭和30年代の日本の陶磁界では、ウィルソン氏の鑑定によると乾山の作品に分類されることのない乾山様式の後世品、贋作、伊八作品などの多くが本物として陶磁全集や美術選書などに掲載されていました。
そのように低い鑑定レベルであった当時の日本の陶磁界が「佐野乾山」をあれだけ明確・徹底的に否定できたことを、ウィルソン氏はなぜ不思議に思わないのでしょうか?
 

再々ウィルソン氏の主張に関して

 投稿者:ケイさん  投稿日:2009年 2月 3日(火)00時05分55秒
編集済
  リチャード・ウィルソン氏の「尾形乾山 全作品とその系譜」第二巻資料編の194ページに“新佐野乾山”なる項目があり、佐野乾山の記述があります。ウィルソン氏は、篠崎氏の発見した佐野乾山と区別するために、佐野乾山事件の対象となったものを“新佐野乾山”と呼称しています。この名称には如何にも新物だというイメージを植え付けるような作為を感じます。
このHPにも書きましたが、そこに掲載されているものうち森川氏の所蔵品と思われるのは2個だけでその他のものはどこから持ってきたのかと思うような作品です。それに対してウィルソン氏は、以下のように書いています。

乾山焼の代表作品を、昭和時代に模倣した最大グループである。
事件当時の記録によれば出現作品は七百点にも及ぶというが、釉下色絵・色絵を主とし、乾山晩年の作であることを意識したものか、高火度焼成の作品はみあたらない。
しかし、黒絵具はうすくなると緑色を呈する近年のもの(大正黒)、筆画においても近代日本画を基礎とした遠近・片ぼかし・陰影などの技法により、きわめて最近の作であることが判明する。わけても現存中の陶も画も交ぜ合わせた絵付けは、乾山ばかりか宗達から其一へと、さらには模倣作品の模倣もあるなど、制作者の不用意さはあらゆる面に表出している。落款も現存作品が手本であり、字形、また、書の空間・分散・配置のセンスも、乾山のオリジナルとは明らかに異質である。
もとより高額な金銭に結びつく作品ではない。
(第二巻資料編の194ページ)

この本に掲載されている佐野乾山は、森川氏が所蔵していたもの以外は私が見てもダメなものが多いので、まずは何故このような品を選択したのか不思議です。何故、森川氏の所蔵品、バーナード・リーチ氏の本に掲載されていた品で判断しないのでしょうか?
どう見ても、森川氏の所蔵品と同手とは思われない作品をもって“新佐野乾山”は模倣品と書くのは、不適切だと思います。この手法を使えば、“鳴滝乾山”に関しても同じように否定する文章を書くことは可能だと思います。

>わけても現存中の陶も画も交ぜ合わせた絵付けは、乾山ばかりか宗達から其一へと、
>さらには模倣作品の模倣もあるなど、制作者の不用意さはあらゆる面に表出している。

贋作との前提で書いていますが、本物であれば全く問題ないと思います。
佐野で土地の分限者から「鳴滝時代」の絵柄を描いてくれと頼まれれば、同じ絵を描いたでしょうし、宗達は琳派の祖ですから乾山が同様の図柄を描いたとしても何の問題もないのではありませんか?(模倣は琳派の伝統?)
其一に関しては、どの作品を言っているのか不明なので分かりませんが、乾山の作品を其一が模倣したと考えればありうる話です。
更に、“模倣作品の模倣”の記述ですが意味不明な記載です。模倣作品というのは本物があってこそのものです。オリジナリティー溢れた模倣作品などないのですから(笑)、模倣作品は乾山のオリジナルを模倣したものと考えられます。すなわち、“模倣作品の模倣”と言われるものが乾山のオリジナルで、それを模倣したものが模倣作品であったと考えれば何の問題もないと思います。(ウィルソン氏がどれを指して書いているのか不明なので言葉の遊びになってしまいますが...)
すべてが昭和の作品だという前提で考えるからおかしなことになるのだと思います。

それにしても、ウィルソン氏が言う昭和の作品だという証拠はどこにあるのでしょうね?
(例の「大正黒」だけだとしたら、お寒い限りですが...)
 

乾山はなぜ佐野に行ったのか?

 投稿者:ケイさん  投稿日:2009年 1月23日(金)00時27分43秒
  乾山はどうして佐野に行ったのでしょうか? 69歳の時に京都から江戸へ下って更に75歳の高齢で佐野まで行った理由は何だったのでしょうか?
高速道路を使うことができる現在でさえ、佐野は埼玉に住んでいた私にとってさえ遠い所です。最近は、アウトレットモールができたり、佐野ラーメンが有名になっていますが、それでもなかなか行く機会のない場所です。(地元の方、申し訳ありません!)
現在の通説の中には、これに対する回答は全くありません。通説では晩年、江戸に来て作陶したようだ、佐野にも行ったようだ、程度しか分かっておらず、いつ江戸に行っていつ佐野に行ったかも全く分からないのです。ただ、いくつかの江戸作、佐野作と言われている陶磁器や絵画が残されているだけです。
一方、森川氏、住友氏の蒐集した手控え帳を読むとその辺りの事情がかなり明らかになっています。以下に住友慎一先生の「佐野乾山の実像」から紹介します。
当時の佐野ですが、かなり繁栄していたようです。

乾山が佐野を訪れた頃は、天明宿、小屋宿の江戸街道沿いの町は富有な店が両側に軒をつらね、江戸に次ぐにぎわいの町として小江戸ともいわれていました。また越名は江戸に通ずる舟便の要所であり、その上、佐野庄一帯は、江戸と徳川霊廟のある日光とを結ぶ例幣使街道につながる大きな宿場町でした。このような政治、経済、交通の要所にある地として、徳川譜代大名筆頭の彦根藩井伊候の直轄地となっていました。当時の佐野奉行代官松村広休、鋳物奉行代官大川顕道、回船業須藤杜川、近隣最大の鋳物業者の正田道茗等は、財力、教養とも当代一流に人物で、中央の文人墨客と盛んに交流しており、乾山もこの四人に招かれて来佐したもののようです。(P44~45)


また、手控えによると江戸から佐野に行った時期も理由もある程度明確になっています。
乾山が京都を立ったのは、享保十六年乾山が69歳の時です。そして、江戸では光琳もお世話になった江戸の冬木家に居候になったそうですが、冬木家の商売第一の待遇にかなり不満を持っていたようです。そして、享保十七年の初め頃には佐野の大川顕道から招待されてますが、「江戸に下れば、下野(佐野)へ、そこにまいれば、その先へと、末は、えぞの国までゆきつくやの旅を重ねて年老いてゆくのは、いかなる星のもとに生まれたのか」と嘆じたそうで、その時は断っています。
そして、佐野滞留の期間ですが、

元文二年早春、乾山は江戸(湯島)を立って越名(こえな)に向った。乾山は杜川宅に直行せず、天明宿の型造り工人次郎兵衛宅に、大川顕道の指示で、身元確認のため、半月ばかり滞在した。その後、杜川宅に入った。(P74)


とのことで、その後、佐野の地の美しい自然と招待してくれた4人の文化人の厚いもてなしが気に入り、結局1年半ほど滞在したようです。乾山は、江戸には帰りたくなかったようですが、冬木家に対する義理から、帰らざるを得なかったようです。

当時の越名河岸は、川幅9m長さ11Kmに及び、両岸に松杭を隙間なく打ち並べ、水上は百数十隻の船が帆柱を林立し、壮観であったそうです。江戸時代の物資の輸送は多く水路を利用して行われ、江戸の町でも運送のための水路が多く築かれていたそうで、越名から江戸へはこの水路を利用して輸送を行っていました。
乾山は佐野で、作陶用の土や素焼きの陶器を江戸に注文していましたが、その輸送もおそらくこの水路を利用していたのでしょう。

このように当時の佐野は現在からは想像もできないほど繁栄していたようです。手がかりがなく、当時の事が全く分からないのであればこれらの手控え帳を参考に研究すればよいのに、と素人の私などは思うのですが...。
 

ギャラリーフェイク

 投稿者:ケイさん  投稿日:2009年 1月13日(火)00時01分29秒
編集済
  細野不二彦氏の「ギャラリーフェイク」という漫画があります。元メトロポリタンミュージアムの有能なキュレイターであり、抜群の修復技術を持った藤田玲司が主人公で美術界の裏側まで描いており、私の好きな作品の一つです。その文庫版の6巻に「タブーの佐野乾山」と題して「佐野乾山」問題を描いたものがあります。
藤田所有の乾山が「ズバズバ家宝鑑定局」という番組に出され、藤田本人もひょんなことからその番組に鑑定士として出演することになり、陶磁器の鑑定士である、青山新ノ輔と対決することになります。

青山:プロのわれわれの間にはこういう言葉があります。乾山を見たらニセモノと思え!!
   それほど乾山のニセモノは昔から多く作られているのです! そうですな、ギャラリーフェイクのフジタ先生。
藤田:おおせの通り!
(二人の鑑定額は、青山:5万円、藤田:800万円とでる)
青山:フジタ先生はメトロポリタン出身で、洋画や彫刻にはお詳しいかもしれませんが、この分野は苦手のようですね。
   日本の骨董は奥が深いので ときに鑑定ミスがあっても当然ですよ!
司会者:するとこの皿は?
青山:まっかなニセモノです。よくできてはいますがニセモノとしてはこんな値段でしょう。
藤田:いや・・・私は本物だと思いますね。それもただの乾山ではなく――
   真正の“佐野乾山”と見ましたのでこれほどの額は当然だと思います!!
青山:佐野乾山!? フジタ先生墓穴を掘りましたな!
   よりによって佐野乾山の名前を出すとはおどろいた! その名は骨董の世界ではタブーといっていい!
   “佐野乾山”と聞いて眉にツバしない専門家はいません!
藤田:何と言われようとそれが私の鑑定です。あなた方にとってはタブーでも私にはどうでもいいことでしてね。


どうです?なかなか面白い展開ですよね。(笑)ついでに佐野乾山に関する説明を紹介します。


藤田:佐野とは今の栃木県の佐野市のことだ。乾山が晩年佐野に招かれて作陶したという言い伝えがあるため、この時代の作品を“佐野乾山”と総称している。
ところが昭和37年に佐野乾山をめぐる事件がまきおこった!? 佐野市のいくつかの旧家から200点にのぼる佐野乾山が見つかったのだ。京都のあるコレクターがこれを買いあさったことから、それが発覚した。
この佐野乾山の真贋をめぐって専門家の意見は真っ二つに分かれた。論戦はマスコミをまきこみ、学者、文化人入り乱れてのテレビ討論会、はては衆議院の文教委員会まで持ちこまれる大騒動とあいなった
論戦は膠着状態となり、やがて世間の関心も薄れていった。
佐野乾山には“疑惑の焼き物”というレッテルだけがはられた! 以降、現在に至るまでこれに手を出す古美術商はなく、美術館では研究すら行われていないというありさまだ!


なかなか良く調べていますね。某研究家よりもずっと公平な眼で書かれていると思います。しかし、惜しいことに、相変わらず衆議院での議論があったことは書かれていますが、そこで何を議論されたかに関しては、何も書かれていません。しかし、これは細野氏のせいではなく、最近の本にその内容を書いたものがないのでしょうがないことだと思います。(故意なのか無知なのかは分かりませんが...。)
実際には、国会で
「われ誤てりという藤岡了一さんの見解が出れば、これは落ちついてしまいます。しかし藤岡さんの見解として反論が出てくれば、これは君の言う定説というようなものは当分私は尾を引いてくる。・・・ 従って私の見解は、藤岡さんが再び反論をして、自分の説が間違いなかったということになれば、これは落ちつくところへ落ちつくどころの騒ぎではない。つかまされた人は憤慨するし、えらい問題が起きるのではないか、こう思っているので、あなたの説、落ちつくところへ落ちつくという説は、いささか私どもには承服できないところがあるのですが、それはいかがですか。」という濱野清吾氏の発言で文化財委の清水事務局長に藤岡氏が反対派に対して反論しないようにという圧力を掛けていたわけですから、全然“論戦は膠着状態”などという状況ではありませんでした。
それを知ってか知らずか、「真贋議論の詳細に関しては、当時の文献を参照されたい」との旨の記載して済ませている研究家がいることは本当に情けないことです。
 

再びウィルソン氏の主張に関して

 投稿者:ケイさん  投稿日:2009年 1月 5日(月)01時04分43秒
編集済
  最近は、ウィルソン氏の本をずっと読んでいますが、結局はウィルソン氏の結論は「佐野乾山」に関しては、真作説、贋作説で議論があったが、

しかし、出川直樹の「いまだに謎をはらむ『佐野乾山事件』」でも語られるように、多くの贋作との意見をもった人びとが、今も堂々とみずからの思うところを主張するのに反し、真作説に走った側は、しだいに口を閉ざして弱腰になり、結局、世間一般は贋物事件としての一件落着を憶測するようになるのである。

ということが理由で贋作だと言っているように思えます。これに関しては、下の方にある「国会での言論統制に関して」で反論を書いたのでそちらをご覧ください。
もう一つは、真作派のバーナード・リーチ氏に関して、

当時のリーチは、75歳の高齢で、ほとんど白内障から視力も衰え、興奮することによって精神の安定を欠いていたとジャネット氏は回顧する。

との記述から、氏は当時眼が悪かったので「佐野乾山」を真作と間違って判断したと言いたいようです。しかし、これは、http://homepage2.nifty.com/hokusai/sano/Ogatakenzan_zensakuhin.htm にも書きましたが、来日当時、同行していた渡辺達也氏の証言からそんなことはなかったことが分かります。
また、昨年末に行われた「森川如春庵の世界」をご覧になった方はご存じだと思いますが、リーチ氏の「森川如春庵画像」(1964年)が展示されていました。つまりこれによって、その当時(佐野乾山事件が盛り上がってから2年後)でも肖像画を描けるくらい眼が見えていた証拠になると思います。

最近、ウィルソン氏の「The Potter’s Brush」という本も購入しましたが(どうでもいいけど氏の本は高過ぎる!)、この本でもSano Kenzanに関して同様の事を書いています。最近はリーチ氏の本を読む人も少ないでしょうから、英語圏ではウィルソン氏の主張だけが届いているように思えます。これが日本にとって良いことなのかどうかは、あの世に居られる乾山ご本人に判断頂きたい所です。
 

「佐野乾山」の真贋についての議論

 投稿者:ケイさん  投稿日:2008年12月28日(日)01時25分7秒
編集済
  このようなHPを作っているので誤解されると困るのですが、私は「佐野乾山」と言われているもがすべて真作であると主張している訳ではありません。そもそも「佐野乾山」がすべて贋作であったり、すべて真作であったりする訳はありません。これは、「鳴滝乾山」と言われているものがすべて真作でないのと同じことです。

乾山が佐野に滞在したことを証明した篠崎氏の御苦労は大変なものであったと思いますが、彼が発見した「佐野乾山」に対してバーナード・リーチ氏も森川氏も否定的で、後世の作だろうと書いていました。これらの「佐野乾山」は、私が見ても魅力のないものに見えますが、陶磁協会公認の真作とされています。一方、森川氏が見出した「佐野乾山」は、陶磁協会が贋作であると主張して事件になったのです。

ですから、「佐野乾山」の真贋を議論する時には、まずは森川親子とバーナード・リーチが認めた(例えば、本や図録に掲載されている)物で議論しないと、噛み合わない議論になってしまいます。最近、ネットオークションでも「佐野乾山」が結構出品されていますが、私が見てもダメなものがほとんどです。反対派の人達は、そのような類の物を持ってきてやはり「佐野乾山」は贋作だ!と言っているように思います。

まずは、当時議論になった物を対象にして一点一点、良いもの、悪いものを判別するのが本筋であろうと思います
 

ウィルソン氏の主張は・・・

 投稿者:ケイさん  投稿日:2008年12月17日(水)00時45分37秒
編集済
  リチャード・ウィルソン氏の「THE ART OF OGATA KENZAN」の「佐野乾山」に関する記述を読み直していますが、ちょっとビックリした事があります。

How could they overlook the modern materials like chrome oxide in the pottery pigments,...

という記述です。ウィルソン氏は、やはり「佐野乾山」事件当時の日本で出版された本を良く読んでいないではないか、と疑いたくなる記述です。これに関しては、とうの昔に(46年前に(笑))決着が付いていたと思いこんでいました。
これに関しては、渡邉達也氏の「真贋 尾形乾山の見極め」から引用します。

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いち早く贋作説を表明したのは日本陶磁協会会長の梅沢彦太郎氏などの関係者一同であり、それは正気の沙汰とも思えぬほどの発言といえた。その理由の一つをあげてみると、黒絵具は、「大正黒」で現在使用されているものだという。つまり、一部に緑、黄の色を呈しているから、間違いなく現代の贋作だと極めつけたのである。

この黒色について、専門家の重要な証言があるので次に記してみる。発見の報道がエスカレートして、社会問題にまで発展し始めた翌三十八年の十一月十一日、蒐集家の森川勇氏が、佐野乾山作品を五、六点持参し、宇都宮市の栃木会館において、栃木新聞社主催の一般公開「佐野乾山問題に関する座談会」で、検討のため資料として観覧に供してくれた。この席上に座談会出席者として、京都工芸指導所技官・陶芸家吉竹英二郎氏の「大正黒」について発言記録があるので紹介してみよう。

「新聞で乾山の黒は大正黒であるということを聞いておりまして、一応、大正黒でこういう数種の薬を使ってやってみたのでありますが、大正黒というものは市販されているもので、その調合の内容はわかりませんけれど一応、私たち専門家として酸化クローム、鉄、若干のコバルト、この三つのものが組み合わされて加焼され粉砕されて絵の具にされておるということが言えるのであります。それを低火度の顔料の下で書きますと加焼されておりながらその性質を失って本体を現す。クロームはこの釉薬の下では、濃いところでは黒に見えますけれども、薄いところでは緑を呈し、黄色いぼかしが出てくる。そういうものが乾山にない。二色の黒を使っている乾山の黒の中に青くでているのを大正黒と間違っているんじゃないかと思います。乾山の黒にはぼかしがはいっていない。骨書きは骨書きではっきりし、青は青ではっきり出ている。線のはしに青と黄のまじったぼかしは少しも見当たりません。それはクロームを使っていないという証拠じゃないかと思います。」
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専門家にこれだけ主張されていると、これに反論するには新たな証拠が必要だと思いますが、その提示もありません。当時話題になっていた「佐野乾山」を実見していないと思われるウィルソン氏はどのように考えているのか不可解です。
 

なぜ「佐野乾山」以外は批判されないのか?

 投稿者:ケイさん  投稿日:2008年12月11日(木)00時30分14秒
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  「陶説」1962年9月号に保田憲司氏の『新発見「佐野乾山」画源考』という一文があります。これは、「佐野乾山」は偽物であり、その描かれた絵の本絵の出所を書いているものです。
例えば、「佐野乾山」に描かれた滝の絵は、小林太市郎氏の「乾山」の口絵に掲載された『乾山滝山水絵茶碗』に描かれた鳴滝の滝を真似したものだろう、と言った具合です。別に鳴滝の滝のマネをしなくても佐野にも立派な滝があると思いますが、そんなことは考えていないようです。
また、「佐野乾山」の向付で御自分の所有されていた「錆絵手、光琳菊絵茶碗」のマネをされたと描かれています。しかも、御自分の茶碗は数少ない江戸窯の作品であると自慢されています。乾山が江戸に下った頃に光琳は当然亡くなっていますので、何故「光琳菊絵」なのかは分かりませんが...。

陶磁器の絵付けは何らかの元絵(粉本)があるでしょうから後付けの理由はどうとでも付けられるので、この議論に意味があるのかどうか分かりませんが、読み物としてはなかなか面白いものです。

この中で気になったのが、小林氏の「乾山」所載のものは京都にある「乾山堂」の大正初期の作品である、とか他の品は、具眼者には共箱も偽筆偽作であり、本体の皿も「乾山堂」の贋作であると述べていることです。これらは、「佐野乾山」の絵は、ニセモノの絵を真似たものだと揶揄するために出されたものですが、それがなければ指摘されなかったものでしょう。
「佐野乾山」に関しては、みんなこぞってニセモノだと声高に主張するにも関らず、なぜそれらのニセモノは批判されていないのでしょうか?

松本清張氏が主張したように「なぜ自分たちのものに協会は批判を加えないのか」ということを再認識させられる一文でした。
 

「陶説」恐るべし!

 投稿者:ケイさん  投稿日:2008年12月 1日(月)23時44分47秒
編集済
  最近、46年前の「陶説」(日本陶磁協会)を読むのがマイブームとなっています。その中で面白かったのものを一つ紹介します。

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●1962年7月号
陶器随想  長谷川已之吉
佐藤、磯野両君は、陶磁協会の中心的指導者である。此の重要な座にある指導者が、「永仁の壺」事件当時は口を減して何の発言もしなかったのに、一年すぎて、陶説三月号、四月号に左の発言をしている。

三月号 磯野 ― 「永仁の壺の時は被害者が加藤唐九郎君のパトロンや知己で、金銭の損害も、唐九郎君の現在の茶碗の一個か二個にしかならない。だから唐九郎君にうまく一杯喰わされたよ、と笑ってすんだのである。
四月号 佐藤 ― 「永仁の壺は加藤君が十数年に渡って仕くんだ大芝居でした。金銭上についての被害はほとんどありませんで、むしろ笑いごとで終わった様です。

人間の倫理観、指導者の常識が、此の如く狂って来ると私には理解しかねるのである。
金銭に関係がなければ、友人を犠牲にし、精神的に大きなキズをつけて、笑ってすまされる人間は悪魔でなくてなんであろう。
(中略)
別な見方からすれば、特権階級の如く我々の上にあぐらをかいて居る重美審査員を悉く笑い物にした加藤唐九郎の詐為行為は痛快であり、今後の教訓とはなったが、それだからと云って、かかる詐為によって友人の小山さんをだまし、社会問題となって文化財の信用を軽からしめた罪悪は許せないものであろう。小山、加藤の偽らざる懺悔録が発表されない限り、私達には其の真相は分からないが、金銭上に関係がないから笑ってすまされるというコモンセンスは私には不可解である。佐藤、磯野の意見が公表されなければ、それは個人的なものとして看過できるが、これが中心的指導者であり、その機関誌に二人とも同じ意見を発表しているのを見ると、今後の若い人達に及ぼす影響を惟い、私のようなサムライは黙過することはできないのである。
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長谷川已之吉氏というと第一書房を起こした(岩佐又兵衛の「山中常盤物語絵巻」の海外流出を防ぐために全財産を投げ打って買い取った)人くらいしか知りませんが、御本人なのでしょうか?
当時の陶磁協会にも正論を述べる人が居た事を知って安心しましたが、それにしてもこれだけの内部批判記事を載せるとは、「陶説」恐るべし!(^^)
(そのすぐ後ろに磯野氏の言い訳が続くのですが...)
 

加瀬藤圃氏の主張

 投稿者:ケイさん  投稿日:2008年11月20日(木)00時49分35秒
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  日本陶磁協会の機関誌である「陶説」1962年9月号に、画家、かな文字研究家の加瀬藤圃氏の「乾山字母表に就いて」という一文が掲載されています。これは、7月号から3回に渡って連載されたものです。
内容は、「真乾山」(真作と言われているもの)と「新乾山」(佐野乾山)で使われているひらがなの字体を比較したものです。これは、私も「佐野乾山」の字を見たときに真正乾山の字と比較しようと思ったくらいですので、普通に思いつく手法だと思います。
その結果として、加瀬氏は、「真乾山とは似ても似つかない下手物であることは明瞭である。」と結論付けており、さらに発見者である斎藤素輝氏の文字と同じである、と断じています。
この加瀬氏の手法には、いろいろと突っ込みたい部分がありますが、それよりも結びの文として、

この手控えまでこしらえて東西の大デパートに堂々と陳列させた贋物業者の宣伝振りは、今までにない強引ぶりであつた。この大量生産の偽物も、始めから模造としてなら許せるが、真物の緒形乾山作として三点を数百万円でうるといつた悪辣な商売をしたから問題になつたと思う。猶問題になつても真物とみせようとした、森川氏は、まづ第一の明き盲で、これを絶賞して已まなかつた美術史家の数氏は、尚一段の半鑒耳食の徒である。その愚劣低見論ずるに足らぬヘボ学者である。二世紀以前の作品と今窯から出たばかりの下劣醜陋なるものとを辨別が出来ぬとあつては、今までなにを勉強されていたのかといいたい。」(不適切な表現もありますが、原文のままとしました)

私はこれを読んで、暗い気持ちになると同時に、何か怪しいぞと感じました。私のこれまでの経験からして、美術界のように確実なことが少ない世界で断定的に言い切る人ほど信用できないと思っているからです。それにしても、加瀬氏の相手に対するリスペクトのカケラもない表現には呆れてしまいますね。
二世紀以前の作品と今窯から出たばかりの下劣醜陋なるものとを辨別が出来ぬとあつては、今までなにを勉強されていたのかといいたい。」という言い方は、佐野乾山事件の一年前に問題となった「永仁の壺事件」の時にそれを本物として商売を行っていた陶磁協会の一部のメンバーにこそ言うべき言葉のように思います。
 

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