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「陶説」恐るべし!

 投稿者:ケイさん  投稿日:2008年12月 1日(月)23時44分47秒
編集済
  最近、46年前の「陶説」(日本陶磁協会)を読むのがマイブームとなっています。その中で面白かったのものを一つ紹介します。

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●1962年7月号
陶器随想  長谷川已之吉
佐藤、磯野両君は、陶磁協会の中心的指導者である。此の重要な座にある指導者が、「永仁の壺」事件当時は口を減して何の発言もしなかったのに、一年すぎて、陶説三月号、四月号に左の発言をしている。

三月号 磯野 ― 「永仁の壺の時は被害者が加藤唐九郎君のパトロンや知己で、金銭の損害も、唐九郎君の現在の茶碗の一個か二個にしかならない。だから唐九郎君にうまく一杯喰わされたよ、と笑ってすんだのである。
四月号 佐藤 ― 「永仁の壺は加藤君が十数年に渡って仕くんだ大芝居でした。金銭上についての被害はほとんどありませんで、むしろ笑いごとで終わった様です。

人間の倫理観、指導者の常識が、此の如く狂って来ると私には理解しかねるのである。
金銭に関係がなければ、友人を犠牲にし、精神的に大きなキズをつけて、笑ってすまされる人間は悪魔でなくてなんであろう。
(中略)
別な見方からすれば、特権階級の如く我々の上にあぐらをかいて居る重美審査員を悉く笑い物にした加藤唐九郎の詐為行為は痛快であり、今後の教訓とはなったが、それだからと云って、かかる詐為によって友人の小山さんをだまし、社会問題となって文化財の信用を軽からしめた罪悪は許せないものであろう。小山、加藤の偽らざる懺悔録が発表されない限り、私達には其の真相は分からないが、金銭上に関係がないから笑ってすまされるというコモンセンスは私には不可解である。佐藤、磯野の意見が公表されなければ、それは個人的なものとして看過できるが、これが中心的指導者であり、その機関誌に二人とも同じ意見を発表しているのを見ると、今後の若い人達に及ぼす影響を惟い、私のようなサムライは黙過することはできないのである。
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長谷川已之吉氏というと第一書房を起こした(岩佐又兵衛の「山中常盤物語絵巻」の海外流出を防ぐために全財産を投げ打って買い取った)人くらいしか知りませんが、御本人なのでしょうか?
当時の陶磁協会にも正論を述べる人が居た事を知って安心しましたが、それにしてもこれだけの内部批判記事を載せるとは、「陶説」恐るべし!(^^)
(そのすぐ後ろに磯野氏の言い訳が続くのですが...)
 

加瀬藤圃氏の主張

 投稿者:ケイさん  投稿日:2008年11月20日(木)00時49分35秒
編集済
  日本陶磁協会の機関誌である「陶説」1962年9月号に、画家、かな文字研究家の加瀬藤圃氏の「乾山字母表に就いて」という一文が掲載されています。これは、7月号から3回に渡って連載されたものです。
内容は、「真乾山」(真作と言われているもの)と「新乾山」(佐野乾山)で使われているひらがなの字体を比較したものです。これは、私も「佐野乾山」の字を見たときに真正乾山の字と比較しようと思ったくらいですので、普通に思いつく手法だと思います。
その結果として、加瀬氏は、「真乾山とは似ても似つかない下手物であることは明瞭である。」と結論付けており、さらに発見者である斎藤素輝氏の文字と同じである、と断じています。
この加瀬氏の手法には、いろいろと突っ込みたい部分がありますが、それよりも結びの文として、

この手控えまでこしらえて東西の大デパートに堂々と陳列させた贋物業者の宣伝振りは、今までにない強引ぶりであつた。この大量生産の偽物も、始めから模造としてなら許せるが、真物の緒形乾山作として三点を数百万円でうるといつた悪辣な商売をしたから問題になつたと思う。猶問題になつても真物とみせようとした、森川氏は、まづ第一の明き盲で、これを絶賞して已まなかつた美術史家の数氏は、尚一段の半鑒耳食の徒である。その愚劣低見論ずるに足らぬヘボ学者である。二世紀以前の作品と今窯から出たばかりの下劣醜陋なるものとを辨別が出来ぬとあつては、今までなにを勉強されていたのかといいたい。」(不適切な表現もありますが、原文のままとしました)

私はこれを読んで、暗い気持ちになると同時に、何か怪しいぞと感じました。私のこれまでの経験からして、美術界のように確実なことが少ない世界で断定的に言い切る人ほど信用できないと思っているからです。それにしても、加瀬氏の相手に対するリスペクトのカケラもない表現には呆れてしまいますね。
二世紀以前の作品と今窯から出たばかりの下劣醜陋なるものとを辨別が出来ぬとあつては、今までなにを勉強されていたのかといいたい。」という言い方は、佐野乾山事件の一年前に問題となった「永仁の壺事件」の時にそれを本物として商売を行っていた陶磁協会の一部のメンバーにこそ言うべき言葉のように思います。
 

真正乾山とは?

 投稿者:ケイさん  投稿日:2008年11月11日(火)23時52分24秒
編集済
  ”珍品堂主人” 秦 秀雄氏が1962年の芸術新潮で佐野乾山に関して述べています。
なんの、かんのといっているけれど、文化財委、陶磁協会、そして全国の道具屋さんはグルになっているんですよ。その組織の力で、ニセモノだ、ニセモノだと騒がれては、たまったものじゃない。これはもう”暴力”ですよ。
さらに続きます。
これは陶磁協会の機関紙ですよ。この雑誌の口絵にのせている乾山は、いわば協会ご推薦の乾山だ。ところが、どうです。その八割はニセモノばかりだ。(1954年5月に出した<乾山特集号>の54点のうち、40点ちかくはニセモノだという意味)協会の理事諸君で、いい乾山を持っているという人があるなら、見せてほしい。いや協会につながる業者のところでも、まず乾山銘のあるものの9割はニセモノと断言していい。僕は彼らに乾山を論ずる資格なしと決めつけたい。

また、発見者である森川勇氏は言います。
「佐野乾山」反対論者は必ず従来の「真正乾山」とくらべて筆致が違いすぎる、という。だが私に言わせれば従来、「真正乾山」として通ってきたもののうちにこそ価値のないものが混じっているのであって、それと「佐野乾山」をくらべて、筆致が違いすぎるといわれても、当惑せざるをえないのである。(中略)
京都時代ではまず光琳の絵つけ落款、乾山の賛あるいは落款による合作物をあげるのは誰しも異論のないところだろうが、そうした作品にしたためられた乾山の書(いずれをみても自信に満ちた書風である)と同時代の乾山自画自賛の作品として通っているものの書をくらべてみると、大部分は玉と瓦ほどの差が判然としている。


この二人の指している「真正乾山」がどのようなものかは私も分かりません。しかし最近、「佐野乾山」事件前後の年に発行された陶磁協会の機関誌である「陶説」を数十冊見る機会がありました。それには、乾山の作品がしばしば写真で紹介されているのですが、そのほとんどは最近の乾山の本、展覧会の図録では見ることのないものばかりでした。素人の私にその真贋は分かりませんが、すくなくとも当時話題となった「佐野乾山」の方が良いもののように思えました。
 

国会での言論統制に関して

 投稿者:ケイさん  投稿日:2008年11月 9日(日)03時19分52秒
編集済
  前回紹介した松浦潤氏の 日本のやきもの【鑑賞と鑑定】「第三巻 瀬戸・美濃・京焼 楽」という本の中で、氏は佐野乾山事件の三つの謎として、下記3点を挙げています。

① 何故、科学鑑定がなされなかったのか
何故、真作派はある時期を境に沈黙してしまったのか
③ 贋作者は誰か?

① に関しては、前回書いた科学鑑定が実はされていたという話に繋げています。それでは、②の何故、真作派はある時期を境に沈黙してしまったのかに関してはどうでしょうか? 現在の贋作派の人達(松浦潤氏、ウィルソン氏、出川直樹氏)はこの②が贋作であるという証拠だと主張しています。すなわち、
多くの贋作との意見をもった人びとが、今も堂々とみずからの思うところを主張するのに反し、真作説に走った側は、しだいに口を閉ざして弱腰になり、結局、世間一般は贋物事件としての一件落着を憶測するようになるのである。
という理論です。
このような記述を読むと、これらの人達は、過去の経緯を本当にきちんと調べているのだろうか?と疑問を持ってしまいますが、専門家の人達が過去の経緯を調べることなくこんな事を書くはずはないと思いますので、恐らくは全て分かっていて書いているのでしょう。

真作派に人達が沈黙した理由は、http://homepage2.nifty.com/hokusai/sano/genin.htm に詳しく書きましたが、要は、国会文教委員会での言論統制が原因です。

昭和37年10月29日の第41回国会文教委員会小委員会で高津議員、濱野議員の
たとえば東京国立博物館の林屋晴三氏とか、あるいは京都国立博物館の藤岡了一氏とか、あるいは東大の乾山、先琳の研究家で、第一の専門家のように認められている山根有三氏とか、そういう人々の自説をじゃんじゃん書かしておった。宣伝しておった。
と、文部事務官清水康平氏文化財保護 委員会事務局長を追及しています。これに対して、清水氏は、
やはり学者としては正々堂々と自分の研究と経験を発表するのもよいが、どうか権威ある学術雑誌に発表すると同時に、やはり何といっても国家公務員であるから良識によって行動してもらいたいということを深く注意を喚起いたしました。それぞれの博物館長はそれぞれの技官にそれを通知し、また会議もして検討をいたしたという報告を受けておる次第でございます。」

これを読めば、会社や大きな組織に属したことのある人であれば、この結果がどうなったかは容易に推測できるでしょう。自分の会社の役員や社長が自分書いた論文に関して国会で詰問されたことを考えてみて下さい。当然、国会に出た役員や社長から「自粛せよ」とのお達しがでるでしょう。また、仮に役員や社長が太っ腹であったとしても、直属の課長や部長達が上に余計な気を使って大騒ぎして、自粛を強要されることでしょう。
これによって、真作派のメインのメンバーであった東京国立博物館の林屋晴三氏、京都国立博物館の藤岡了一氏、東大の山根有三氏などは一切発言できなくなったのです。
以上のような状況を考えると、松浦氏が“奇怪”と感じている「「佐野乾山」はまぎれもない真作であると強く主張し、展覧会まで開催してデモンストレーションしていた論者が水尾比呂志のような一部の例外を除いて、翌年の昭和38年には沈黙してしまったこと」の理由も分かるはずです。
昭和37年10月29日の国会で清水康平氏が圧力を受けたのですから、それ以降(昭和38年)には、真作派の人達は沈黙せざるを得なかった訳です。真作派の多くが国家公務員だったことが禍しました。そして、松浦氏が「水尾比呂志のような一部の例外を除いて」と書いた水尾氏は当時は武蔵野美術大学助教授でしたから、国家公務員のような圧力が掛からなかったので、変わらずに発言を続けてきたのです。

国家公務員である大学や研究機関が真作説を学術的にを発表することに対して圧力をかけたこの事実はほとんど知られていません。佐野乾山事件において、これほど重要な意味を持つ国会でのまさに「言論統制」に関して記載している本が現状ほとんどないことは本当に情けないことです。佐野乾山事件というとお決まりのように「国会でも議論された」というような表現が使われているのですが、その国会での議論された内容まで書いてあるのは、私の知る限り、「真贋白崎秀雄著、と「真贋 尾形乾山の見極め渡辺達也著の2冊だけです。

そう考えると、表面的でセンセーショナルな内容だけを報道し、国会での言論統制に対してチェック機能を果たせなかったマスコミにこそ、その責任の大部分があるように思えます。
 

佐野乾山の科学的調査?

 投稿者:ケイさん  投稿日:2008年10月31日(金)01時34分56秒
編集済
  松浦潤氏が編・著の本で、日本のやきもの【鑑賞と鑑定】「第三巻 瀬戸・美濃・京焼 楽」という本があります。氏は、ウィルソン氏と同様に以前から佐野乾山贋作説を唱えている現在の贋作派の代表的なお方です。
その本の中に「知られざる東工大鑑定」という記述があります。

『読者から手紙を貰った。その手紙は刊行されて間もない加藤誠軌(東工大名誉教授)編著「X線分光分析」(内田老鶴圃)に「佐野乾山」についての記事があると教えてくれた。さっそく取り寄せてみたところ、全く知らない驚くべき事実が書かれていた。何と東工大で「佐野乾山」の蛍光X線分光分析が行われていたのである。

昭和三十七年頃、二百余点の「佐野乾山」が新たに発見された。さらに「佐野手控帳」という覚書も見つかった。その当時蒐集家のM氏の依頼で(国立博物館の専門官H氏も同席した)著書がXRF装置で分析した。当時のXRF装置は大きな物体は測定できなかた。そこで、木綿針を数本束ねて焼き物を啄木鳥のようにつついてごく少量の上絵具を採取した。傷痕は漆と顔料で補修した。昔の顔料と現代の顔料を数十種類用意してそれらを標準にして定性分析をした。
分析の結果は、佐野乾山の絵具の顔料は非常に純粋で、昔にはあるはずがない顔料も検出した。分析結果M氏に伝えたが公表はしなかった。著名人士を巻き込んで賛否両論が国会にまで持ち出された「佐野乾山」は偽物であることがこの方法で科学的に証明された


私はこの文章を読んで非常に奇異に感じました。「X線分光分析」は純粋な学術書です。①このような本を読む人の何%の人が陶磁器に興味を持っているのでしょうか? そして、②その陶磁器に興味を持っている人のうちの何%の人が佐野乾山に興味を持っているのでしょうか? さらに、たとえ興味を持ったにしても③この内容を陶磁関係者に手紙で知らせようと思い立ち、さらにさらに④多くの陶磁関係者の中から松浦氏を選ぶ、というのはかなり確率の低いことのように思えます。

まあ美術や骨董の世界において、このような確率の非常に低い偶然は往々にして起こるので、詮索は止めましょう。
科学的な方法という内容の検証をしましょう。
加藤氏の書くように、この結論は、本当に科学的なものなのでしょうか? 結論からいうと全然科学的ではありません。

1)まずは、学術書でありながらこの佐野乾山の部分には解析データが付いていません。検証すべきデータが無いのに、昔にはあるはずがない顔料も検出した。などと言うのは、全く不適切です。本当にあるはずがない顔料ならばその物質を特定すべきです。

2)また、二百余点のうち数個を調査しただけで「佐野乾山は偽物である」などとどうして言えるのでしょうか? 例え調査結果で偽物と判断できたとしても(この方法では判断できませんが)科学者であれば、「調査したものは偽物である」としか言えないはずです。

3)XRF装置で科学的に調査しても「佐野乾山は偽物です」などというデータが出てくる訳ではありません。(笑)結局は、「検出した顔料が比較用の昔の顔料と違う」ということしか分かりません。そして、比較用に用意した昔の顔料は、江戸時代に使用された全ての顔料を用意している訳ではありません。(まじめにやろうとしたら、用意した数十種類の顔料が江戸時代に存在した顔料のすべてである(あるいはほとんどを網羅している)ことを証明する必要があります)

こんな実験結果で、どうして加藤氏は佐野乾山を偽物だと主張しているのでしょうか?

いやいや、私の書いた内容などは元大学教授であるご本人がよくよくご存じのはずです。
分かっていながら書いたその意図は何なのでしょうね。
 

佐野乾山が贋作にされた理由

 投稿者:ケイさん  投稿日:2008年10月28日(火)23時59分5秒
編集済
  それでは、なぜ佐野乾山は贋作にされたのでしょうか?
私は単純な話だと考えています。それは森川氏の所有している佐野乾山の数が多すぎたからだと思います。

佐野乾山が話題になった当時、真正の乾山(本物と言う意味ではなく、陶磁協会が認めていたもの)は300個くらいだったということです。(松本清張氏説)本物が300個しかないにもかかわらず、目利きである森川氏が200個以上の佐野乾山を所有していたわけです。当時目利きとして知られていた森川氏ですから、氏から佐野乾山が売りに出された場合、市場でも本物として通ってしまいます。すなわち、真正の乾山(しつこいようですが、本物という意味ではありません)が300個しかないということで、希少価値を含めてほぼ決まっていた乾山の価格が、佐野乾山が加わることによって大きな影響を受けることは目に見えています。(2倍近くの物が市場に出てくる可能性がある訳ですから...)
もちろん、落合氏が指摘するように佐那具陶研での乾山の大量倣造の問題もあるでしょうが、もしそれがなかったとしても市場価格に大きなインパクトを与える大量な数が問題になっていたと思います。

また、佐野乾山を所有していたのが、本物を見抜く目利きであった森川氏でなければこんな大騒ぎにはならなかったと私は思います。というのは、所有者が森川氏でなければ、本物の佐野乾山だとは誰も信用しないからです。市場に出ても、骨董屋の親爺さんに「あ~、こりゃダメだね!」の一言で葬り去られてしまっていたでしょう。
実際には、目利きである森川親子、林屋晴三氏(東京国立博物館)、藤岡了一氏(京都国立博物館工芸室長)など、そうそうたるメンバーが本物だと主張したのですから、なりふり構わず徹底的に否定する必要が生じたのでしょう。

それでは、仮に森川氏の所有している佐野乾山が5,6個だったらどうだったでしょう? 恐らく、それほど問題にならずに本物に認定されていたような気がします。
例えば、光琳の肖像画(中村内蔵助像:重要文化財)や乾山の角皿(色絵桔梗図大角皿など)3枚を古道具屋から見出した青柳瑞穂氏の場合は、比較的すんなりと真正光琳、乾山として認められています。それも数が少なかったからだと思います。年に2,3個の発見であれば、市場価格や学説の大勢に影響がないからです。
 

佐野乾山の絵付け

 投稿者:ケイさん  投稿日:2008年10月25日(土)13時55分55秒
編集済
  佐野乾山の真贋が問題になった時、贋作派の一番の主張は「これまでの乾山の絵と違う」というものでした。確かに鳴滝時代の絵と比べると雰囲気は違います。しかし、よく考えてみると、鳴滝時代の乾山作品は光琳による絵付けの物がほとんどです。乾山が佐野に行った時には、光琳は亡くなっていますので光琳の絵付けである訳はなく、「これまでの乾山の絵と違って当然」なわけです。

じゃあ鳴滝時代の乾山の絵付けと佐野乾山の絵付けの比較ではどうなんだ?という素朴な疑問が出てきますが、現在乾山研究の第一人者である竹内順一氏によると、『絵付けの中に乾山の手になる「絵」があるか否かは乾山焼研究の大きな追究目標であるが、伝世品のなかには確定できるものはない。』とのことです。

つまり、一般に言われている「これまでの乾山の絵と違う」という批判はまったく意味がないということになります。
一般の人は、佐野乾山が本物か贋物かなど自分には関係ないので、雑誌や新聞に書かれていることを疑ったりそれほど深く考えたりしませんので、「これまでの乾山の絵と違う」と書かれていれば、「へえ~、そうなんだ...」ということになります。

さらに言えば、鳴滝の窯を廃したのは乾山が50歳の時で、佐野乾山の時代から25年も前の事です。陶器職人であれば、同じものを何十年も作り続けるでしょうが、芸術家である乾山が25年も同じ画風で描いた訳がない、と考えるのが通常の考え方だと思います。画家でも最盛期の絵と晩年の絵が違うのは常識と言ってもよいと思います。ですので、安易に佐野乾山の絵が違うと言うのは、ピカソの「青の時代」しか知らない人が、晩年の絵を見て贋作だというのと同じように馬鹿げたことだと思います。
 

続 松本清張氏「泥の中の佐野乾山」

 投稿者:ケイさん  投稿日:2008年10月19日(日)00時51分17秒
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  松本清張氏は、佐野乾山を巡る陶磁協会、文部省などに関する調査、考察にはさすがと思わせる冴えがありますが、手控帖、作品に対する考察に関しては「?」が付きます。
清張氏は、「佐野手控帖」の文字が、乾山の文字の基準となる小西家文書と違うので乾山の弟子が手控帖も陶器も作ったのだろうと判断しています。しかし、手控帖の文字に関しては、水尾比呂志氏(元武蔵野美術大学教授)が、以下のように述べています。

乾山の若いころの『過凹凸窠記』と小西家文書はまったく書体が違います。楷書と草書という違いはもちろんありますけど、ちょっと見たところでは、同一人物かどうか疑いたくなる。一人の人がこれだけ違う書体で書けるということを再認識しなくてはいけないと思うんです。」(目の眼 昭和60年6月号)

同じ議論は光悦の文字に関しても言えると思います。手紙の字と作品の書体はまったく違います。ですから、書体が違うから別人が書いた、弟子が書いたという短絡的な結論は説得力がありません。水尾氏はさらに言います。

われわれ美術史をやっている者はよく個人様式の比較をしてこれは誰それの作品であるとか言いますね。似てる似てないというのは一応は説得力があるんですけど、また危険でもあります。似ている場合には、むしろ危ないこともある。偽物を作る時に、似ていないものを作るわけはないですから。むしろ似ていなくても、気分が通じているというものの方が信用できるのですが、これは中々難しい。『過凹凸窠記』と小西彦右衛門宛の手紙を素人の方に見せたら、90%の人は違うと言うでしょう。しかし私はこれを眺めてますと、やっぱり同一人物の筆跡だという一脈通じるものを感じるんです。この手紙と手控を見比べてもやはり通じるものが感じられます。」(目の眼 昭和60年6月号)

清張氏の主張は、陶器自体の評価に関しては「今出来ではない」という以外ほとんど記載がありません。七世乾山であるバーナード・リーチが「一目見て本物と思うばかりでなく、私が今まで見たなかでもっともすばらしい乾山の焼物です。」と言った森川氏所蔵の佐野乾山を弟子の作と言うのであれば、その弟子の作よりも劣る世上真正と言われる乾山は誰が作ったと言うのでしょうか?(笑)

しかも、この佐野手控帖は、発見時は「戦後最大の資料発見」と言われていました。
琳派の研究では第一人者の東大美術史の山根有三氏は森川氏の手控え帖を「乾山の自筆と認める」とコメントしていましたし、中世日本文学の研究者で井原西鶴の第一人者である、野間光辰氏も非常に貴重な資料である、とコメントしていました。
 

松本清張氏「泥の中の佐野乾山」

 投稿者:ケイさん  投稿日:2008年10月15日(水)22時57分5秒
編集済
  「佐野乾山」の事件はとても不思議な事件です。というのは、過去の経緯や議論された内容を調べれば調べるほど、「どうしてこれが贋作とされているのだろう?」と思えてくるからです。
佐野乾山事件の渦の中にあった昭和37年、故松本清張氏がこの事件を「芸術新潮」誌上で論じています。
その主張は、

要するに、日本陶磁協会が森川親子憎しの感情と、佐野乾山が出れば市価に響くという利害的な関係から、これの否定に総動員でかかっているとすれば、まことに情けない話で、自分のほうは頬かぶりして相手だけを攻撃するのは、まさに大衆には縁のない私闘である。テレビ討論会や新聞紙などの公器による発言など、思い上がりも甚だしいと言わねばならぬ。また、庶民には遠い問題でマスコミも少し騒ぎすぎると思う。

というものです。少し補足しますと、

森川氏は愛知県中島郡の旧家で、父の勘一郎氏は元文部省文化財専門審議委員をつとめていた。古陶器鑑定では第一人者といわれ、息子の勇氏も早大卒業後は古美術研究に凝り、その才腕を買われて、二十七年末から三十年まで約三カ年、文部省文化財委の事務局に嘱託として働いた。(中略)
井伏鱒二氏の小説モデルといわれている「珍品堂主人」の秦秀雄氏は、「森川親子というのは、なにしろ、当代一流の目利きだからね。本当のところ、五人や十人の業者がいっしょになって当たってもかなわないくらいの男だ。それに財力があるから、業者たちに森川に対する怨嗟は非常なものですよ」


要は、業者やその団体である日本陶磁協会は、森川親子を非常に敵視していたということです。清張氏は言います。

新発見の佐野乾山を除いて、いわゆる「乾山」と称せられるものが三百点以上出回っていると思われる。これが陶磁協会側の会員の手から所蔵家やコレクターに納められたり、また業者の所蔵になったりしている。一体、真正乾山なるものが三百点以上もあるものだろうか。これらの乾山ものについて真贋の論議が陶磁協会側では全然なされていない。なぜ、彼らの持っているものに協会は批判を加えないのか。会員や仲間のものならみんないいとでも思っているのか

と主張しています。私も全くその通りだと思います。佐野乾山を批判するのであれば、真作と言われている他の乾山も総ざらいして真贋を鑑定し直すべきだと思います。

最終的な清張氏の結論は、陶器も手控え帖も贋作派の言うような「今出来ではない」としながらも、手控え帳の文字はこれまで知られている乾山の文字とは異なるので、どちらも乾山の弟子が作ったものだろう、というものです。
これに関しては、私はもちろん異論がありますので後で書きます。
 

佐野乾山の発見

 投稿者:ケイさん  投稿日:2008年10月13日(月)00時13分2秒
編集済
  今更という気はしますが、佐野乾山の発見の発端は...
昭和35年ころ東京国立博物館陶磁室勤務の林屋晴三技官がたまたま旧知の美術商を訪れたところ、
「大変はものを見ました。実は今日港区内の知り合いの美術商を訪ねたところ乾山の焼き物をどさりと見せられたんです。」と言われた。
林屋氏は、「そんなバカなことが...」と一笑に付してみたものの、どこか気になりその美術商を訪ねてみたところ、そこにあったのは、まごうことない乾山の色絵陶磁器の群れであった。しかも陶器に書かれた和歌、俳句、所懐、記年によれば常識的にはあり得ざるいわゆる「佐野乾山」であった。林屋氏は一瞬、これは贋物かと思ったが主人が傍らの箱から「佐野手控帖」を出してきた。そこには作陶上の注意、絵付けの絵柄などが克明に描かれてあった。

折よく上京していた森川勇氏(森川如春庵勘一郎氏の御子息)に伝えると森川氏も苦笑して言った。「人をかつぐにもほどがある」だが、林屋氏に引っ張られるようにして件の美術商を訪れた森川氏は息をのんだ...。森川氏は長い間驚きをもって無言で現品を見ていた。やがて、息をつき、ただひとこと、「いくらだ」と言った、と言う。
家に帰り、父親である勘一郎氏(如春庵)にその話をした。父は彼の言葉をまったく信用しなかった。幼いころから、光悦の茶碗でお茶を仕込み、美術品の見方を教えて来たはずのわが子の言葉とは思えなかったのであろう。
そんなものに夢中になれるとは、お前はなんと馬鹿なのだ」と言ったそうである。
しかし、息子が持ってきた半ダースの矩形の深皿と茶碗一対を見ると、彼も驚き、それらが本物であることを信じたのであった。
その後、森川親子と林屋氏の三人は、しみつぶしに、佐野地方を探索する計画を立て、徹底的に調査し、蒐集したのが問題となった「佐野乾山」なのである。すなわち、二百点にも及ぶ「佐野乾山」は、2年以上に渡る徹底的な調査によってようやく蒐集したもので、一度に発見された訳でも何でもなかったのである。
 

森川如春庵 - 中京の麒麟児Ⅲ

 投稿者:ケイさん  投稿日:2008年10月 7日(火)22時05分32秒
編集済
  若くして光悦を所有してお茶に使っていた森川如春庵 (勘一郎)は、古陶の目利きでした。氏の著になる『志野 黄瀬戸 織部』(昭和11年)は名著と言われており、いまだにこの本に掲載されているかどうかが美濃焼の判断基準になっているそうです。ちなみにその巻頭には現在国宝の「卯花墻」が載せられているそうです。

また、如春庵は、古筆に関しても田中親美に師事して研究に没頭していたそうです。氏は、「紫式部日記絵詞」(国宝、重要文化財)の発見者でもあり、今回の展覧会でも展示されています。他にも平安、鎌倉時代の古筆を多く所有していたそうで、今回も沢山展示されていました。もちろん(光悦筆+宗達下絵)なども展示されています。

そう考えると森川如春庵、ご子息の勇氏が「佐野乾山」の発見者、発掘者になったことは偶然ではないことが分かります。光悦の茶碗に日常的に接することで磨かれた古陶磁に対する鑑定眼、平安、鎌倉時代の古筆、光悦の書を通して養われた古文書に対する鑑定眼。「佐野乾山」の真贋を鑑定するのにこれ以上の鑑定家はいなかったでしょう。(今もいないでしょう…)
        ↓ 佐野乾山に書かれた文字(クリックすると大きくなります)
 

「森川如春庵の世界」に行ってきました。

 投稿者:ケイさん  投稿日:2008年10月 6日(月)22時07分23秒
編集済
  三井記念美術館で行っている。茶人のまなざし「森川如春庵の世界」に行ってきました。

http://www.mitsui-museum.jp/exhibition_01.html

古美術好きにはたまらない展覧会ですね。私は茶の湯に関しては、門外漢ですがそれでも展示品の質の高さには圧倒されました。
私の好きな陶磁器だけでも光悦の「時雨」、「乙御前」、瀬戸黒の「小原女」、国宝の志野茶碗「卯花墻」などを堪能できます。通常の展示よりも低い位置に置いてあるので、それぞれ、見込みまで見ることができます。「「時雨」の見込みってこんなにツルツルなんだ...」とか「みんな結構上から見ると歪んでいるんだ…」なんていう見方もできます。
森川家では、光悦の茶碗でお茶を楽しんでいたそうですから、うらやましい限りですね。
その他にも例の佐竹本三十六歌仙切「齋宮女御」も見ることができました。また行きたくなる展覧会でした。
みなさんも是非ご覧ください。
 

森川如春庵 - 中京の麒麟児Ⅱ

 投稿者:ケイさん  投稿日:2008年 9月26日(金)00時31分8秒
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  さて、如春庵、鈍翁で有名なのは、「佐竹本三十六歌仙絵巻」裁断の件です。この事件に関しては、「秘宝 三十六歌仙の流転」日本放送協会 が詳しいので紹介します。

佐竹本三十六歌仙絵巻は今からおよそ七百年余り前の鎌倉期に作られたもので、絵姿は似絵(肖像画)の名手と言われた藤原信実が描き、歌は後京極良経の筆になると伝えられている。(中略)万葉から平安朝に至る三十六人の歌詠みたちの歌と絵姿が色鮮やかに描かれていたこの上下二巻の絵巻物が、それではなぜバラバラになってしまったのか。
話は六十年余り前に遡る。

事件は大正八年、師走のある寒い日に起きた。
信実の三十六歌仙 遂に切売となる。
総価は三十七万八千円
最高は「斎宮女御」の四万円
昨日益田氏邸に数寄者四十余名集合して抽籤で分配
(大正八年十二月二十一日付「東京朝日新聞」)

この新聞の記事によれば、秋田の佐竹家に代々伝わっていた三十六歌仙絵巻が売りに出されたのだが、あまりの高価に一人でこれを買い取る人がいないため、切断して一枚一枚を切り売りにすることになったのだという。(中略)大正八年頃の一万円は、今日の一億円にも相当するといわれる。総価が三十七万八千円-今日でいえば、やはり四十億円近い金額になる。
(「秘宝 三十六歌仙の流転」 日本放送協会 87~88項 より)」

この時、如春庵は一番くじ(柿本人麻呂)しかいらないと公言し、みごと一番くじを引当ます。この時如春庵は31歳だったそうですから、驚きですね。ちなみに「柿本人麻呂」の価格は1万5千円で、現在の価値でいうと約1億5千万円ということですから、これも驚きです。
 

森川如春庵 - 中京の麒麟児Ⅰ

 投稿者:ケイさん  投稿日:2008年 9月23日(火)12時50分57秒
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  森川如春庵を語る上で外せないのは、三井物産の創設者で三井財閥の大番頭と言われていた益田鈍翁との関わりでしょう。
二人は大正二年に初めて言葉を交わしたそうですが、その時に如春庵は40歳も年上の大鈍翁に対して「あなたは金の力で物を買うが、私は目の力で買っている」と言ったそうです。(私達庶民から見ると如春庵も金の力で買っている、と言いたい所ですが...(笑))
その時、如春庵は26歳だったというから驚きです。それ以来如春庵鈍翁は世代を超えた親友となって行きます。

鈍翁が90歳の時に如春庵が一行書の揮毫を頼んだそうですが、その時に如春庵は気に入らなかったのか3回も書き直しをさせたそうです。
それに対して鈍翁は、手紙で
なんぼ親友でもこんな面倒な字をかけと言われてはたまらぬ。今後は書かない、絶交を申し渡す
というような事を書いたすぐ後に、
この度の御ほうびに三日間この地に遊びにくるべし。つもる話が山のようにある
という意味の文章が続き、二人の親密さが表れています。
 

幻の森川コレクションいよいよ東京で公開!

 投稿者:ケイさん  投稿日:2008年 9月21日(日)22時49分30秒
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  昨年ご紹介した森川勘一郎氏(森川如春庵)の幻のコレクションが、いよいよ10月4日から東京の三井記念美術館で公開されます。

茶人のまなざし「森川如春庵の世界」
http://www.mitsui-museum.jp/exhibition_01.html

何と16歳にして光悦の「時雨」、さらに3年後の19歳の時にも同じ光悦作の「乙御前」を手に入れた希代の目利き、中京の大茶人と言われていた如春庵のコレクションが初めて一堂に会します。
ご子息の勇氏とともに「佐野乾山」を真作の乾山と認めたその眼筋の確かさを皆さんもご覧になってみては如何でしょうか。
(写真は如春庵が16歳で入手した光悦の「時雨」)
 

個人情報について

 投稿者:ケイさん  投稿日:2008年 9月 1日(月)00時17分26秒
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  最近世の中は、個人情報保護だ、コンプライアンスだとうるさい世の中になっていますね。我々のようなメーカーも顧客情報の漏えいがあっては大変なので、社内的にも規制やチェックが厳しくなっています。ITのお陰で何万件というデータを簡単に世界中に送ることが可能なのですから、それもしょうがないと思います。
一方、弁護士さんやお医者さん達は扱っているデータは、量は少ないでしょうが、その情報の質を考えるとその情報の漏えいによる損害は計り知れないものがあります。ですから、顧客情報だ云々の前にきちんとした守秘義務というものがあり、秘密を漏らした場合の処分が刑法で規定されています。
この守秘義務はもちろん業務上知りえた秘密に関するものです。しかし、一般生活で秘密を守れない人が守秘義務だからと言って仕事上の秘密を守れる訳はありませんので、弁護士、医者を選ぶ時には慎重に選ぶ必要がありますね。
仮に秘密を守れない人でしかも裁判が好きな人だったら...。目も当てられませんね。気に入らないクライアントはどんどん訴訟をしてやる、なんてね。(笑)
そんな弁護士や医者にかかる人は居なくなるでしょうが...。
 

【御礼】Gogleの登録削除

 投稿者:ケイさん  投稿日:2008年 5月18日(日)22時58分26秒
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  佐伯のHPを縮小版ながらも復活させてからすぐに「佐伯祐三」のGogle検索ランキングの1Page目に復活しました。
しかし、先週になってからランキングから消えてしまったので、「もうみんな佐伯の真贋事件には興味がなくなったのかな?」と思っていましたが、そのランキングの落ち方が異常だったので、調査してみました。
その結果、佐伯関連のHPがGogleから削除されていることが分かりました。いろいろと調べてみると、スパム関連を使用して削除が行われたようです。早速、Gogleに再登録をお願いしたため、ランキングは復活しました。
ついでにHPの佐伯以外のページも調査してみたところ、かなりのページが削除されていることが分かりました。しかも、削除されているのが全部ではなく一部なので、その削除されたページが公開して欲しくない部分(情報として重要な内容)なのだと思われ、興味深い結果が出ました。「お、やっぱりこれは削除されている」、「あれ、これは良いの?」となかなか楽しめました。
これまで佐伯のHPは大丈夫だったのに、佐伯の筆跡鑑定の内容を追加した途端に削除されたため、気がついて本当にラッキーでした。分かり易い削除をして頂き本当にありがとうございます。お礼申し上げます。(笑)
これまでズボラなHP管理をしていましたが、お蔭様でこれからは定期的にチェックしますし対応策も考えることができました。

【重要】記載内容に関して意見・要望のある方は直接メールで連絡をお願いします。
これまでも記載のあった縁戚の方からメールを頂いたものは、誠意を持って対応させて頂いていますし、これからも同様の対応を行いたいと思います。
 

ようやく落ち着きました

 投稿者:ケイさん  投稿日:2008年 5月 1日(木)19時42分21秒
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  住み慣れた川越から仙台の地に引っ越して2か月になります。
ようやく落ち着いてきました。
閉鎖していた佐伯関連も再開する事とします。
まずは、初心に帰って「真贋事件」に関してから再開します。
そのうち新しい内容も追加するつもりです。
 

Yahoo! オークションの出品について

 投稿者:ケイさん  投稿日:2008年 1月26日(土)16時12分16秒
  最近、このHPを見て能書きを付けて出品したと思われる出品が散見されます。
ここのHPは基本的に真実と思われる物を掲載していますが、出品されたものの真贋は
ご自分で慎重に判断されるようにお願いします。
当然の事ですが、このHPで書いているような本物はめったにありませんよ!
 

住友ミュージアムに関して

 投稿者:ケイさん  投稿日:2007年12月22日(土)00時20分35秒
  Kさん、書き込みありがとうございます。

住友ミュージアムに行かれたのですね。私も一度行きましたが、場所が悪すぎますね。
私は車で行ったのですが、「どこまで行けば着くのだろう?」と不安になりました。(笑)
HPにも書きましたが、「佐野乾山」と言われているものには色々な種類があります。
①乾山がすべて作り、絵付けをしたもの
②弟子が作り、乾山が絵付けをしたもの
③江戸から取り寄せた素焼きを使って乾山が絵付けをしたもの
④乾山が去ったあと(同じ窯で)弟子が作ったもの
⑤後世の贋作
私の素人の見解ですが、住友氏のコレクションはその辺の分類がどうなのかな?と思っています。
贋作派は、わざとそれをごちゃごちゃにして論じているように思えます。
私は「佐野乾山」と言う時には森川氏、リーチ氏が認めたものを基準に考えようと思っています。
 

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